二大流派

二大流派 〜新たな角度で見る2つの空手流派〜


 空手道には様々な流派がある。空手PRESSでは取材活動を通じて技術や人的な
流派ではない、今までと異なる視点から流派について考えてみたいと思う。流派
の考え方に1つの境界線を引くのは非常に難しいのだが、空手道に関わる問題の
多くは、下記の2つの思想によるものが大きく影響しているのではないかと考える。

1、疑問を持たせない流派
 疑問を持たせない流派というのは絶対的に正しい思想の下に、指導者なり上に
立つ者が「○○であるべき」という絶対的”正しい答え”を持ち、それを徹底的に
指導をする流派のことで、言わば教わる者の思考を停止させる流派と言えよう。

2、疑問を持たせる流派
 疑問を持たせる流派というのは、もしかしたら間違っているかも知れないという
可能性を残した指導をする流派のことで、絶対に正しいという答えを持ち合わせて
いない為、常に不安と向き合わなければならない。思考を必要とする流派と言えよう。

 上記の2つの流派(思考)には一長一短があり、どちらかが優れていて、どちらか
が劣っているというような事はない。もちろん、安易に良い悪いと判断することなど
出来ない。人には向き不向きもあり、こうありたいと願う自分の価値観に合わせて
関わることが懸命であると言えよう。

 では、具体的な例を挙げながら考えて行きたい。空手の初歩といえる礼について
考えてみたい。あなたは正しい座礼を知っていますか?左座右起は正しい礼法なの
でしょうか?もちろん、正しい座礼を指導者に教わって、その通りに実践している
人は、それが正しいので何の問題もなく、それは正しいと思います。
 続いて、拳の握り方について考えてみたい。あなたは正しい拳の握り方を知って
いますか?指先から軽く曲げて最後に親指を曲げ添える。これが正しい握り方と教
わっているなら、それで良いでしょう。
 続いて、あなたは形を教わります。指定形というものです。これが正しい指定形
という事で指導者に教わります。足の立ち方から目線や突きの高さまで細かく教え
て貰いました。教本と照らし合わせても正しい指定形です。これも、あなたが正し
いと思うなら正しい形で間違いはありません。

 ここで何か疑問を感じた方はおられるでしょうか。もちろん、疑問を感じる方も
いれば何の疑問を感じない方もおられるでしょう。当然ながら思考の価値観なので
正しい答えなどないのですが、この思考の価値観さえも「これが正しい」とする
空手が1にあたる疑問を持たせない流派になります。この思考を停止させる流派は、
余計な疑問がないために想像を絶する集中力を発揮します。疑問がないので、稽古
に集中が出来るのです。これが正しいと思い込むことで、例え間違っていたとして
も繰り返し鍛錬されるので技に研きがかかります。思考は停止し、更に更にと練り
上げられるので人一倍の輝きを持ちます。こうなると正しいか正しくないかに関係
なく他の追随を許さないので頂点へと近づくことになります。いちいち考えていたら、
きっとここまで辿り着くことは出来ないでしょう。

 一方、疑問を持ってしまう流派の人が技を磨き上げるのには苦労が伴います。こ
れは自問自答を繰り返し、思い悩むことで前進が妨げられるからです。特に早い時
期に結果を求められる少年期に、この疑問を持ってしまう流派の人は、つらい経験
をする事が多いです。しかし、人生に過不足がないとするならば、こうした経験は
後に貴重な財産となるのではないでしょうか。今の時代は、物事を深く考えてしまう
と周囲に遅れをとってしまい、物事を有利に進めることが出来ない環境があるので、
焦るあまりに思考停止に追い込まれる場合もあります。

 良い学校を出て、大企業に就職する。中学生になったら塾に行くのが当たり前。
こういう時代において、本当に塾に行く必要があるのか?と考えていては取り残さ
れてしまう可能性があります。しかし、本当にそうでしょうか?
 ここで最も役に立つのが、疑問を持たせる流派の空手です。世の中が疑問も持たず
に正しいと判断しているものが本当に正しいのかという思考。疑問を持たずに塾に
通い、一流企業に就職し、うつ病を患う人もいます。もちろん、全ての人がそうなる
訳ではないので、これも一概に正しいとは言えません。いずれにしても思考が停止
していないので、ここで何を書こうとも自分で思考する人は自分の考えにおいて、
物事を決めていく事が可能なのです。当然、先に書いたように思い悩むことを伴う
ので決して楽な道ではありません。

 疑問を持たない流派で育った場合、信じて疑わないので突出した成果を出せる場合
があります。「君は絶対に金メダルを獲れる」こうした言葉を100%信じることが
できれば人は想像を絶する努力と能力を発揮するでしょう。疑問を持つ流派の人は
「まさか、そんなうまく行くはずがない」という思考が邪魔をして自らの可能性を
潰してしまうかも知れません。しかし、疑問を持つ人も疑問を持ちながら精進する
ことは可能であり、その試行錯誤の中で達成された金メダルがあったとしたら、そ
れは畏敬に値しますね。スポーツ界でも、そういう人が少なからずいます。
 しかし、多くの金メダリストは絶対的に信じて疑わない正しい指導によって思考を
停止させられた状態でメダルを獲得しています。そのメダルという1点においては
優れているのは確かですが、思考をしていないので社会に出て失敗をしたり、自分が
間違っているかも知れないという疑問を持たないので困ったことになったりします。

 繰り返しになりますが、これは良い悪いの問題ではなく個人の価値観であり、選ぶ
のは本人次第です。もちろん出逢う指導者の影響も大きいですが、全ての選択権は
自分にあります。
 さて、この疑問を持つ流派と疑問を持たない流派の間で起きる摩擦に関して触れて
おきたいと思います。これが絶対に正しいという考え方ともしかしたら間違っている
かも知れないという考え方が衝突することがしばしばあります。こうした考え方の
相違によって物事の方向を決めなければならない際のジレンマがあります。
 それは信じて疑わない者の方が圧倒的に結果を得られやすいという点です。当然
ながら人間がやっている事なので話し合いや説得によって両者の意見は近寄りを見せ
る訳ですが、必ず頑なに信じて疑わないという人がいます。もちろん、それは個人の
価値観であり、そのものを否定するつもりは全くないのですが疑問を持つ余地が全く
ない完全なる思考停止状態なので、仮に100人の意見で50人ずつが正反対の立場になっ
たとしたら、疑問を持たない側の意見が通ってしまうという仕組みがあります。

 この理由は、50人は絶対に正しいという考え方から50人が○という意見になります。
一方の50人は×という意見になるのですが、疑問を持つ流派ですから絶対に×である
とは思わない訳です。思考するということは思いが中庸に傾いてしまうので×じゃな
いかも知れない。つまり、○の意見も一理あると考えるので結果的に絶対に正しいと
いう考え方と"勝負する"という観点に立つと負けてしまう事が殆どなのです。
 ここは本当に悩ましい部分ではあるのですが、仮に完全なる50対50が中庸であると
したら、50人の絶対的○に対して片方の50人は絶対的×でなければならないのですが、
これでは双方が思考停止の疑問を持たない流派でなければならない訳です。
 よって絶対的○の50人と懐疑的×の50人が勝負をする訳ですから結果が見えている
のです。これにより、絶対的○は自信を持ち、更に絶対的になり、絶対的○同士が
対立を起こすと手が付けられない状態になってしまうのです。

 柔道では、この思考停止を防ぐために嘉納治五郎さんが形や乱取りなどの技術面に
加えて講義と問答というかたちで思考を促す稽古も取り入れていたようです。しかし、
スポーツ化が進んで技術ばかりに目が向いて講義と問答を疎かにしている柔道が様々
な問題を抱えるようになったのは我々にとって良い教訓になるのではないでしょうか。
 もちろん、世界のトップを目指す選手にとって思考を必要としない場面もあるかと
思いますが、一撃で人を倒したり傷付けたり出来る格闘技術を何の思考能力も持たない
人間に享受させてしまったら取り返しの付かない失敗をするのは目に見えています。
 空手界の思考中庸を保つ意味でも、最低でも疑問を持つ流派の人間を半数は育てな
ければならないと考えます。仮に半数を育てても中庸には及ばないのですが・・・。

 今でこそ当たり前の地動説ですが、その昔は天動説が当たり前でした。天動説を信じて
疑わない人々に「それでも地球は回っている」と唱えたガリレオは迫害されました。
 疑問を持たず、これが絶対に正しいと思うことでも時代や時間、人間の進化によって
変わるかも知れないということは一応、歴史が証明をしてくれています。私達がいま
正しいと信じて疑わないことも、それが本当に正しいかどうかは分からないというのが
空手PRESSの意見です。






サイト名: 空手PRESS   https://wkf.jp
この記事のURL:   https://wkf.jp/modules/tinyd6/index.php?id=9