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admin2 さんの日記

2021
3月 22
(月)
06:40
勝利至上主義のすゝめ(案)
カテゴリー  一般公開
タグ 
本文
 世の中では「勝利至上主義」が悪者になっているようだが、
勝利至上主義そのものは大変に結構なことであると考える。

 さて、大切なのは目的と手段、そして言葉の使い方や捉え方
である。金メダルを獲得したり、大会で一位になることなどは
到底、勝利とは呼べず、ここを目指すことは勝利至上主義とは
言えないのではないだろうか。空手競技でいうならば、組手な
ら全試合10−0を目指し、形ならオール10点満点を出すこ
とが勝利に近いと言えよう。これでも完全勝利には程遠い。
 空手の場合、仮に金メダルが獲れたのだとしたら単に相手が
弱かったと捉える方が真の勝利に近づけるであろう。また、同
じ土俵、同じルールの中で競い合うことで高みを目指し、相手
から勝利を収める経験というのは人間を大きく成長させるもの
と考える。しかし、これらの経験は目的ではなく、あくまでも
手段とすべきである。

 これら勝利を疑似的に学ぶ上で最も適しているものがスポー
ツ全般であり、他にもテレビゲームなども一定のルールの下で
勝利に向かって創意工夫する必要がある点でスポーツに似てい
るとも言える。

 勝利という言葉の解釈には多様性があり過ぎるのだが、徹底
的に探究するのであれば必ず目先の利益や戦術に走ることをせ
ず、最終的に恐らくは「戦わずして勝つ」というような戦略的
な思考を育てられるようになるはずである。徹底的な探究が行
われない場合、わかりやすく言うならばパチンコなどのギャン
ブルで勝った負けたというような次元の低い勝敗思考で、目指
すべき勝利の方向性が間違った方向に向かってしまう。

 勝利至上主義でパチンコを捉えるならば、誰が最終的に勝利
を得ているのかは明白である。また、人間の心理や物欲、少し
勝って少し負けるという面白みを駆使し、大切な時間と僅かな
カネを持て余した智慧のないものたちが集い、勝利を競ってい
るのである。もちろん、全て選ぶのは本人の自由であるし、娯
楽という面もあるので否定をするつもりは毛頭ない。

 スポーツにおける勝利至上主義、ここでは部活動などを中心
に考えてみたい。筆者は、いわゆるスポーツ大会で勝利したと
言われる人たちとの交流が少なからずある。ここでいう勝利は
「一位」または「金メダル」という意味で使っている。勝利を
収めた人の多くは、もちろん相応の努力もし、褒められるべき
点も多々あるが、正しい目標設定がないために承認欲求を満た
すための勝利という側面が強く、勝ち続けることで自分が強く
なった、偉くなったと勘違いをして様々な問題を引き起こして
いる部分がある。これが、いわゆるセクハラ・パワハラなどへ
と変容し時間の経過とともに表面化するのである。特に空手に
おいては残念ながら暴力的な事件に発展してしまう場合も少な
からずあり、正直に言えば構成比率から推察すると事件が発生
しやすい環境である可能性が高い。

 つまり、ゲームで勝利して人生で負けてしまうのである。こ
れは到底、勝利至上主義とは言えない。多くの場合、この間違
った勝利至上主義で育った人間は自らの頭で物事を考える訓練
が出来ていないので、常に誰か(監督・コーチ・指導者)の指
示がなければ動くことが出来ない。兵法を学んでいなければ、
これらの方法で育った人間は想定外の際に対応ができず、勝利
を収めることなど不可能に近い。

 完全なる数値で測れるようなスポーツ、コンピュータなどで
完全なるルールが定められたテレビゲームなどでは相応に公平
な環境で競うことが可能なため、努力や根性論で勝利を収める
ことは不可能である。科学的または理論的なルール解析によっ
て適切な行動・運動を行った場合にのみ正しい結果(勝利)が
得られるようになっている。採点競技や人間の目で判断をしな
ければならない競技の場合、人のさじ加減で勝敗を左右する事
が可能なので客観的な勝敗を判断するのは困難である。

 つまり勝利という言葉を適切に適用することが出来ずに誤解
を生み出しやすい環境といえる。極論になってしまうが、人間
がジャッジを行う以上、その人に気に入られた方が物事を有利
に進めることが出来てしまう可能性が非常に高い。テレビゲー
ムでいうチート行為に近い状態でスポーツが行われている場面
もしばしばある。

 しかし、これらを否定的に捉える必要はない。これで勝利を
収めても人々はそれが勝利ではないことを承知しているし、本
当の意味での勝利至上主義「戦わずして勝つ」から考えると、
敗北至上主義と言わざるを得ない。引き合いに出してしまい、
申し訳ない気もするが筆者は今では野球を見ることはないが、
昔は野球が大好きで毎週のように東京ドームに行っては巨人の
応援をしていた。1番仁志、2番清水、3番松井という感じの
時代だった。詳細は忘れてしまったが、江藤が満塁ホームラン
を放ち、二岡がサヨナラを打って優勝した日も外野席で応援を
していた。あの日は諦めて途中で帰る人たちが多かったと記憶
している。電光掲示板の5Xは今でも記憶に残っている。
 松井選手が抜けてから、すっかり野球熱も冷めて全く興味も
なくなってしまった。前置きが長くなったが、この頃からカネ
にものを言わせて有名選手ばかりを集め、チートどころではな
い絶対に負けないであろう選手獲得を巨人がやりはじめた。

 一時的な人気は出たのかも知れないが、これが誤った勝利至
上主義の典型であると思う。本当に大切なのは、本当のファン
の獲得であったと思う。その点において阪神は、どれだけ負け
ても熱狂的なファンが減ることはなく愛されているチームなの
だと思う。読売グループという巨大組織が大枚を叩いて勝利を
目指しても結果的に勝つこと、勝利を収めることは容易ではな
い。しかし、これを実現しているのは野球というルールが優れ
ていること、チート行為を行うにしても限界があり、例えば外
国人選手の人数規制など、公平性を担保する環境が非常に良く
工夫されているからだ。

 願わくば空手道もオリンピックに向けて良い動きを見せてい
るだけにチート行為を防ぐ工夫と環境づくりが重要であると考
える。しかし、中途半端な勝利至上主義または誤った勝利至上
主義が蔓延している限り、賢い人たちから順に競技から離れて
行ってしまうのではないだろうか。パチンコ理論と同じになっ
てしまうのは何とも勿体ない限りである。

 いつの間にか話が部活動から逸れてしまったので話を戻す。
部活動においてチーム一丸となって勝利を追求するのは非常に
面白いであろうし、子供たちが将来、戦争や紛争を避け、企業
間の競争など様々な争いから「戦わずして勝つ」ためにも部活
動を通じて最高の勝利を目指す訓練や経験は非常に重要である
と考える。競争することで得られる楽しみや快感と同時に負け
るリスクや失敗を実際の戦争で学ぶのではなく教育環境の中で
の部活動というスポーツを通じて勝利至上主義を学ぶのは大い
に結構なことであると考える。特に人は失敗から学ぶことが多
いので本当の勝者を目指すには勝ちやすい環境よりも勝ちにく
い環境で工夫する方が自己の戦闘能力と戦略を学べるチャンス
であると言える。

 巨人軍のような強豪校という手もあるのだが、満たされた環
境では人は努力を怠ってしまうし、あれだけの勝利の刺激の中
で育ってしまうと感覚が麻痺をして、暴力事件を起こしたり、
麻薬に手を出してしまったりする。これは環境が悪いのであっ
て本人だけを責めるのは少し違うと思うのだが、一応、強豪校
を志望したのは本人でもあるので本人の責任がないとは言い切
れないが、間違った勝利至上主義に身を置くのは人生を滅ぼす
原因ともなるので注意が必要である。

 ちなみに強豪校の場合、多くは個人がいくら努力をしても、
個人ではなく余計な冠が頭につくようになる。例えば桑田さん
は素晴らしい人なのだが、桑田さんにはやはり巨人の桑田さん
という冠が必要で巨人の松井さん、巨人の清原さんとなる。
 その点で非常に優秀なのがイチローさんである。本当の勝利
至上主義を学んだと思われるイチローさんは恐らく野球で敵は
作っていないと勝手に想像する。「戦わずして勝つ」野球を科
学的に捉えて「率」を高める工夫とそれに必要な運動や管理や
環境づくりを徹底的に追及した人であると考える。それを踏ま
えた上で最も大事になるのが「いかに勝つか」「勝つとはなに
か」「絶対に負けないようにするには」の思考を使って、あと
はコツコツと積み上げていくことで「率」をあげる。結果的に
誰とも戦わずして最終的な勝利を収めるようになるのではない
だろうか。

 さて強豪校では他にも様々なオマケがついてくる。先ずはラ
イバルの多さである。レギュラー争いが過酷である。言葉が不
適切かも知れないが誰かを蹴落とさなければメンバーには入れ
ない。また数値化できる客観的な競技でなければ実力があって
も人に好かれるというスポーツとは関係のない部分での努力が
不可欠になる。
 当然ながら優れた指導者であれば問題ないのだが、基本的に
は監督の言うことは絶対という環境なので仮に丸刈りを強制さ
れれば丸刈りは当然のことである。他にも腕立て伏せが1万回
なら1万回だし、朝3時に起きろと言われれば朝3時。誤解の
無いように説明させて頂くと、全ての強豪校がそうではなく、
そういう部活動もあるという一例に過ぎない。また、これらを
双方が望んで行うことは体罰に該当しなければ許容範囲である
と筆者は考える。

 需要と供給のバランスが取れていて犯罪行為や違法行為がな
ければ基本的に本人が望んで進学し入部をしたのだから、むし
ろ弱音を吐くなら最初から行くなとも言える部分がある。これ
は寿司屋の看板を見て入店し、ラーメンを注文するようなもの
である。しかしながら真逆の場合もあり、寿司屋の看板を出し
て置きながらラーメンしかない店も困ったものである。とにか
く教育機関での部活動であるから、指導者側も最低限の教育者
として子供と接して欲しい部分がある。また多少の程度問題が
あるので難儀である。

 続いての課題は、指導する側の優越感・支配欲である。誤っ
た勝利至上主義では絶対服従の傾向が強い。人は権力を持って
他人が従うようになると優越感を覚えてしまい、勝利至上主義
の名のもとに権力を振るい始めてしまう。右といえば右、左と
いえば左、カネを持ってこいといえばカネが手に入る状況にな
ってしまう。生徒をメンバーに入れる入れないは指導者の手に
ある。人というのは弱い生き物なので第三者の目に触れない状
況になると特に過ちを犯しやすくなる。例えば顧問が一人の場
合、全権を握ることになるので情報が見えにくくなる。

 誤った指導を行っていたとしても実態把握は困難で、悲しい
かな、そういう環境に限って「目先の勝利」を獲得してしまっ
て間違った勝利によって本質的な部分が見失われてしまう場合
が多い。恐らくは、こういうケースが世間一般でいう勝利至上
主義の弊害と言われているのだと思う。しかし繰り返しになる
が正しい勝利至上主義は探究の上に探究を重ねた「戦わずして
勝つ」という戦略的思考の獲得であり、目先の勝利は目的では
ない。仮に入口が目先の勝利であっても創意工夫をしていけば
必ず戦略の必要性にたどり着き、目先の勝利・誤った勝利至上
主義からは脱却が可能であると考える。

 ちなみに空手道の場合、古来の空手は競うことを目的とせず、
また危険な格闘技術が多いとされ、主に型(形)を主体とした
自己と向き合う稽古と巻き藁等の肉体鍛錬などが殆どで上級者
同士が術理を正しく理解した上で互いに文字通りの試合を行う、
かけ試しなどが行われていたと聞いている。しかし、間違った
勝利至上主義は古来にも存在し、街に出て輩と喧嘩をするとい
う者もあったようであるが「戦わずして勝つ」戦略を理解して
いれば喧嘩というような言葉が登場する余地はないであろう。

※今日では形はカタチの形を使用しているが古来は鋳型の型を
 用いていた。これは浅はかな人物が型を己の都合の良いよう
 に型を変えられないという意味があり、基本的に型の場合は
 後進のものが自己の解釈で都合よく変化させる事を禁じてい
 る。競技の場合は、ルールや時代に合わせて都合よく変化さ
 せる事が可能なので形という文字になったと推察される。

 現在の空手競技で面白味に欠ける部分は、勝利至上主義で試
せる場が非常に少ないことである。先ずは他のスポーツのよう
に公平性が保てる環境が必要で、ドラゴンクエストでいうなら
ばレベル1でラスボスといきなり対戦するような場面が多く、
レベルに応じて強くなるシステムが構築されていないので楽し
く続けることが困難である。基本的に高校から空手をスタート
させるにはレベルは45くらいで戦闘能力は最低でも1万以上
なければ秒殺されてしまう。これで3年もGAME OVER
を繰り返したら誰でも他のゲームに移行したくなるだろう。

 また残ったレベル80同士の争いは好きにやってくれて良い
のだが、数値化できる競技でないために人に承認されるための
合戦が繰り広げられてしまい、何をもってステージクリア(勝
利)なのか客観的に判断がしずらく、チート行為に近いことが
行われることもあり、素晴らしい試合内容であっても理解不能
なGAME OVERで不完全燃焼ということも少なくない。
 更に65536ゴールドを支払ってスーパーソードを使って
クリアする方法もあるが、良い子のみんなにはあまりお勧めで
きない。

 ここまでの言葉を眺めてみると否定的に書かれているように
感じる方々もおられるかも知れない。しかし、空手道ほど複雑
で簡単に割り切れないスポーツも珍しいのである。武道的な要
素も含んでおり、単純に勝利を喜べなかったり、相手のいる競
技だからこそ、心を悩ませる問題も多い。つまり本当の勝利至
上主義「戦わずして勝つ」を学ぶには最適な環境であるとも言
えるのである。しかし、多くの場合、空手の使い方が間違って
いて、空手を通じて何かを得ようと考えたり、空手を通じて何
かを支配しようと考えたり、誰かを蹴落としてまで勝利を手に
いれようと思ってしまいがちなのである。

 しかし指導者が優れていれば、この紙一重の環境で生徒たち
に気付きを与えることができ、人生ここ一番の勝負で空手道で
培った至極の勝利至上主義を用いて本領発揮ができるのである。
 そしてより強き者は弱き者を助け、仲間とともに歩むことが
勝利への近道であることも学ぶであろう。一先ず、競技の空手
が勝負を挑むべき相手は他のスポーツである。野球やサッカー
と戦わずして勝利をおさめ、そのノウハウを使って次は世界と
の勝負である。目先の勝利に惑わされて、ヒト・モノ・カネを
失っていくのは誤った勝利至上主義である。

 金メダルがいくつぶら下がっていても独りで自分と向き合っ
た際に本当に自分が勝ったのか問うてみれば良い。そんな金属
と引き換えに失ったものの大きさに気が付くはずである。ここ
からが本当の勝利至上主義のはじまりであり、空手を学んだ者
が全員、勝利至上主義のもとに戦わずして勝つこと学び、人生
という実践において誰一人として負け知らずであって欲しいと
切に願うばかりである。

※これは主観的原稿であり、未完成である。
 一応、死ぬ前に着手しておきたい課題なので、とりあえず着
 手しておく。(の)
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